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イエス・キリスト生誕 2016年!

 今月の言葉(2001年) 

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当サイトでは、日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から聖書のことばを引用しています。


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◆ 2001.12 

見よ。わたし(イエス・キリスト)は、
世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

- 新約聖書(マタイによる福音書28章20節)-

解 説

 もうすぐクリスマスである。このクリスマスは"Christ(キリスト)"+"Mass(ミサ)"と書き、日本語に直訳すると「キリスト礼拝」となる。そして「メリー・クリスマス!」と言うように、キリストを礼拝することほど素晴らしいことはないと私は思う。心から礼拝したときの深い喜びの感覚は本当に素晴らしいし、他では得られないものである。
 さて、今月の言葉の解説に移ろう。生きていると良いことも悪いこともあるわけだが、これは善人であっても悪人であっても同じことである。つまり幸、不幸と言うものは基本的に「日頃の行い」にはあんまり依存していない。よってあなたがどんな立派な人、あるいは善人であっても、「もうこの世の終わりだ」と思うような不幸な目に一度や二度はあうであろう。
 しかし、上記の聖書の言葉で、キリストは世の終わりまで私たちと共にいると言われた。この世の終わりとは文字通り世界の終わりの日と言う意味だが、世の終わりかと思うような不幸のどん底の時までも私たちと共にいて下さるとも言えるだろう。
 不幸のどん底にいるとき、イエス・キリストは目には見えないけれどあなたのすぐそばにおられ、脱出の道を用意されていることを思い出して欲しい。

◆ 2001.11 

神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。・・・
水の面に円を描いて、光とやみとの境とされた。

- 旧約聖書(ヨブ記26章7節)-

解 説

「地球はまぁるい!」

 今月はちょっと切り口を変えて、聖書の面白い記述を見てみよう。
初めて地球球体説を唱えたのは紀元前5〜6世紀に活躍したピタゴラスのようである。そして紀元前3世紀頃にエラトステネスが地球の直径を算出した。上記のヨブ記が書かれた年代ははっきりしないが成文化されたのはどんなに遅くとも紀元前6世紀までである。さてこのヨブ記の記述を見ると、大地が浮いていることが示唆されている。また「水の面・・・」の記述は、海面上の昼と夜の境を指しているように思われる。そして面白いことだがこの説明は、地球を外から見ている情景である。
 このように、ピタゴラスとどちらが先かは分からないが、聖書は昔から地球が丸いことを示唆しているのである。すると「天動説って聖書の教えじゃなかったの?」と思われる方も、たまにはおられかもしれなが、天動説というのはそもそも2世紀にプトレマイオスが唱えた学説で、実は聖書とは縁もゆかりもなく、それを神学に融合させた古代の教会のミスである。
 このように聖書には案外、サイエンスの目で見ても面白いので時々紹介していこうと思う。

参考:「神が天を堅く立て、深淵の面にを描かれたとき・・・」箴言8章27節

◆ 2001.10 

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのもの(生活に必要なもの)は
すべて与えられます。

- 新約聖書(マタイによる福音書6章33節)-

解 説

 クリスチャンになって分かったのだがこの言葉は真実である。神の御心を第一に求めているとき、不思議に必要なものは与えられてしまう。こまごまと書くと枚挙にいとまがないので、顕著な私の体験をいくつかあげてみよう。

  • 9年ほど前、事情があって片道の交通費しか財布に無い状態で、箱根で行われるキリスト教の集会に上記の聖書の約束を信じて参加したことがある。そうすると現地であった知人が、私がお金を持っていないということを全くご存知でないのに、突然帰りの交通費チョッキリの現金を私に下さった。目ン玉飛び出るほどびっくりした。
  • 今年の6月、家族が緊急入院し医療費が急遽10万円ほど必要になった。すぐに回せるお金が無かったのでお祈りしていたらいろんなところからいろんな形で10万円集まって支払いを済ますことが出来た。
  • つい先日、大幅な年収ダウンを予想してシミュレーションしたところ、生活が全然成り立たないことが判明した。それを家族で悩んだ翌々日、あるところから多額のお祝いを頂き、、例え年収が相当ダウンしても当面やりくりできる目処が付いてしまった。これも家族で大騒ぎした。

 こういう体験は、クリスチャンでないときは経験したことがない。しかしクリスチャンになってからはしばしばこういう体験をする。だから困ったときは、上記の約束を信じて自分の心が神を第一としているかチェックして、天の神様に祈り求めることが大切だと今回も思った。
 社会がいろんな意味で不安定な現在、あなたもこの万物の支配者で創造主である、聖書の神を信じてみませんか?

 なお、与えられるものは、「欲しいもの」でなく「(神が)必要と判断されたもの」であることを区別することは大切である。

◆ 2001.9 

平和をつくる者は幸いです。- 新約聖書(マタイによる福音書5章9節)-

解 説

 平和。これほど言うに易く、行うに難しことばがあるだろうか。人は誰でも平和を望む。しかし実際に平和をつくることはとても難しい。例えば先のテロに対するアメリカの対応など、許しによる平和を取るべきか、正義の行使を取るべきかは非常に難しい。また身近でも利害が全く相反する人や不利益を与える人、気性の合わない人と平和を保つのもとても難しい。よって聖書はこの難しいこと、「平和をつくる者は幸い」と言っているのであろう。
 怒りやすく、自分の悪は忘れても人の悪は忘れにくいのが人間の性質(聖書ではそれを罪と呼ぶ)だが、私たち一人一人がその性質に流されることなく日々の生活で周囲の人と平和を保ち、広げていくのが一番確実で重要な平和をつくりあげる行為のように思う。

◆ 2001.7〜8 

私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。
- 旧約聖書(ネヘミヤ記1章6節)-

解 説

 これはネヘミヤと言う紀元前のイスラエル人指導者の祈りである。当時、イスラエル人はペルシャ帝国に征服されておりネヘミヤは王に仕える身であった。しかし彼はその地位に安住することなく、自分の民族が過去に犯した過ちについて悔い改めの祈りをしているのである。この後、ネヘミヤは創造主に祝福され、彼によってイスラエル人は国を再興してゆく。

 さて、「新しい教科書」で我が国、およびアジア諸国が揺れている。私は日本人がもっと誇りを持って歩むべきだと思うし、他国の批判にいちいち迎合する必要もないと思っている。しかし物事は感傷でなく事実に立脚すべきである。その教科書は読んでいないのだが、この教科書や小泉首相に見られる昨今の日本の右傾化は、自分たちの誇りを守ることや感情論が優先して事実を認めることが軽視されていると感じる。人間は過ちを犯すものである。だから事実であるなら過ちは過ちと認め、かつ自分たちの誇りを持つべきであろう。ところが過ちと認めると、自分たちの誇りを維持できない人たちが少なからずいるのである。これはいささか狭量な発想であろう。誇りと事実認識は独立したものであり、混同してしまって最後は感情論というのは相当みっともない。

 では、ここで話を元に戻してネヘミヤを見てみよう。イスラエル人は過去に過ちを犯し、結果として国を失い他国に強制移住させられていた。ネヘミヤ個人はこの民族の過ちについて責任はないのだが、イスラエル人の一員としてその過ちに心を痛め、神に悔い改めているのである。そして誇りを持ってペルシャのアルタシャスタ王にイスラエル再建を申し出て、実際に再建許可を得て再建を進めていくのである。

 私は日本人がこのネヘミヤのように、個人であると同時に日本人(民族と必ずしも一致しない)であること、事実は事実として悔い改める精神、被征服民でありながらこびることなく誇りを持って自立しようとする、そういうタフな民族になって欲しいと思う。

◆ 2001.4 

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
- 新約聖書(コリント人への手紙第二 5章17節)-

解 説

 先々月と同じことばだが、先日、一人の青年の話を聞いたので紹介しよう。
 彼はついこの前まで、日夜放蕩三昧の生活をしていたらしい。そして、教会に来て聖書の学びをし、イエスさまの救いを受け入れる信仰告白の祈りをしたという。この時、彼は、

    「真面目で窮屈な生活はまっぴらだ。イエスを信じても、絶対に俺は変わらずに今まで通りの自分として歩んで行くぞ。」

と決心したらしい。
 しかし、この時以来、自分でも驚くことに、今までのようにクラブに行っても全然面白くなくなり、お酒も嫌いになり、生活が激変したと言う。

 「キリスト教」と言うと、良い教えを語る宗教のように思われている方もいるかもしれないが、決してそうではない。全能者である創造主に出会って、新たに生まれ変わるのがキリスト教の神髄である。変わりたいけれど変われない、鉄人ガンマのような苦悩をもたれている方がおられたらぜひ、お近くのキリスト教会の礼拝に出てみて下さい。全能者に出会うとき、あなたは変わることができるでしょう。

◆ 2001.3 

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
- 新約聖書(ヘブル人への手紙 12章12節)-

解 説

 聖書に、ペテロが水上を少しばかり歩いたことが記録されている。ペテロはイエスさまの招きの言葉を信じ、イエスさまを見つめて、水面に足を踏み出したとき、水上を歩くことができた。しかし、真っ黒な大波を見て怖くなったときペテロは沈み初めてイエスさまに助けられた。
 私は、最近このことから大いに教えられた。身の回りには大きな問題がいくつもあるものだ。なかには自分で手の打ちようのない問題も多くある。しかしその問題ばっかり見つめて大変がっても仕方がないし気持ちは暗くなってしまう。しかし、私たちを愛して守って下さるイエスさまの導きを信じて、見上げるとき、希望があるのだ。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」

 人生には多くの困難があるが、問題に振り回されず、イエスさまに目を向けて自分に与えられた道をまっすぐに歩むとき、問題を乗り越えていけるのだと思った。

◆ 2001.2 

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
- 新約聖書(コリント人への手紙第二 5章17節)-

解 説

 先日、本屋で-「なぜ、人を殺してはいけないのですか」ヒュー・ブラウン著 幻冬社 -というのを見つけて買ってみた。ブラウン氏は、元北アイルランドのテロリストで、刑務所でクリスチャンになって、宣教師になり、神戸で牧師をしている方であった。この本でブラウン先生は、自己の体験から、人間はキリストにあって生まれ変わることができると語っておられる。「生まれ変わり」というと来世などをイメージするかもしれないが、ブラウン先生が語るように、聖書は「生きている時に」人間は新しくなることができると説いている。
 私もそうだった。子供の時から、何とか自分を変えたいと思ってことごとく失敗してきた。しかし、キリストの愛に触れたとき、確かに自分のある部分が変わったのを経験した。またそれまで何かに熱中していないと空しさを感じるのでいろいろなものに没頭していたが、イエス・キリストに触れたとき、何の努力もすることなく、生まれて初めて「生きているだけで嬉しくて仕方がない」という人生になってしまった。
 もし自分を変えたいと苦悩されている方がおられたら、ぜひ聖書を読んでみて下さいね。
 (ちなみに、エホバの証人さんは全くキリスト教ではありませんのお間違いのありませんようにお願いします)

◆ 2001.1 

見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。
- 聖書(イザヤ書 43章19節)-

解 説

 主は、今、あなたに新しい事をしようとされている。勿論それはあなたにとって良いことである。しかし受け手であるあなたに、その「新しい事」を受け入れる用意がないと、その主の働きは通り過ぎていってしまう。ひょっとしたら、その新しい事は苦しいことや悲しいことかもしれないが、そうであってもそれは、あなたの人生が実を結ぶためのプロセスなのである。その事を信じて受け止めるとき、苦しみや悲しみもあなたにとって良いものになってゆく。
 救われて永遠の命を頂くことと同様、神の恵みは受け手にかかっている。今年、いや今世紀も、主はどんな新しい事をして下さるのかと期待を持って歩んでいきましょう。

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