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2009年 5月 2日 (土)更新
MacWin王国ブログ

イエス・キリスト生誕 2009年!

 今月の言葉(2002年) 

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当サイトでは、日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から聖書のことばを引用しています。


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◆ 2002.12 

マリヤは月が満ちて、男子の初子(イエス・キリスト)を産んだ。
それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

- 新約聖書(ルカによる福音書2章6〜7節)-

解 説

 今回は、日本の歴史ネタである。

 クリスマスの主役であるイエス・キリストは、上記の聖書の記述より、馬小屋(吹きさらしの岩窟と思われる)で生まれたと考えられている。これは、当時のローマ皇帝アウグスト(紀元前27年〜紀元14年)の時代に帝国の住民は故郷で住民登録をする必要があり、イエスの両親であるヨセフとマリヤは住んでいるナザレの町からベツレヘムに来ていたからである。

 このイエスの生誕は、紀元前に書かれた旧約聖書の多数の預言と一致しており、これがイエスが全人類を罪から救うキリストであることの根拠となっている。
 代表的な預言として以下がある。

  • 人間の赤ちゃんとして産まれる。(イザヤ書9章6節)
  • ベツレヘムで産まれる(ミカ書5章2節)
  • ユダヤ人のユダ族(創世記49章10節)、ダビデ王の子孫から産まれる(詩編89篇3,4節)
  • 処女から産まれる(イザヤ書7章14節)

 さて、日本にも似たような生まれの人がいる。それは「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と呼ばれる聖徳太子(574〜622年)である。聖徳太子の誕生逸話は以下のようなものである。

 欽明天皇32年(571)の春正月、穴穂部間人皇女の眼前に金色の僧侶が現れ、「我に救世の願あり。しばらく皇女の腹に宿る」と告げた。皇女が名を尋ねると「西方の救世観音菩薩」と名乗り、皇女が「仰せのままに」とうなずくと、金色の僧は皇女の口中に飛び込んだ。
 敏達天皇元年(572)元旦元日、皇女が宮中を見回って厩戸(うまや)にきたところで、子供を 産み落とした。このことから、厩戸皇子とよばれるようになった。

 この話は、天使ガブリエルによるマリヤへの受胎告知、イエス・キリストの生誕の話に酷似している。よって、歴史学者の久米邦武が聖書の記述の影響を受けているという説を唱えた。

 こう書くと、キリスト教は1549年にザビエルによって日本に伝来したんじゃないかと思われる向きもあるかと思うが、あれはカトリック宣教師が初めて来た時のことであり、キリスト教が初めて伝来したとは考えにくい。

 その理由として、上記の誕生逸話の類似性があげられるが、そもそも聖徳太子が立てたと言われる法隆寺の正倉院にはシルクロードを通って来た古代ローマやヨーロッパのガラス工芸品などがあることから、物だけでなく宗教や思想も伝わってきていると考える方が自然であると考えられる。事実、7世紀には唐(中国)で、景教というキリスト教の一派が大きな勢力を持っていた。このキリスト教が日本海を越えるのに千年ぐらいかかったという方が余程不自然であろう。

 このように、実際には、何らかの形で飛鳥時代にはキリスト教は伝来していたと考えていいだろう。今回は、景教や渡来人秦氏の話は調査不足のため割愛するが、日本古来の文化と思われるもののなかに実はキリスト教の影響があることに着目したい。


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◆ 2002.11 

 すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。またその刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、誰も、買うことも、売ることもできないようにした。………その数字は666である。

- 新約聖書(ヨハネの黙示録13章16〜19節)-

解 説

 今回は個人情報/認証、経済ネタである。

 上記は、オカルト映画「オーメン」で有名になった悪魔の数字「666」の記述があるが、ここで書かれていることは、全人類の体に何らかの刻印がされ、それを持つ者だけが経済活動ができるという全世界の個人認証、経済システムのことである。
 これを現在の社会状況や技術と照らし合わせてみると結構面白い。まず、個人認証については、ネットでの”なりすまし”問題などを考えると必要性は急速に高まっているのだが、総務省が地方公共団体による公的個人認証サービス制度の創設についてというスゴイことをやろうとしている。効率面から言えばどこかで個人情報を一元管理(分散でもいいが)してきちんと認証た方が便利なことは間違いない。しかし、よくメディアで運用面の稚拙さが問題にされる住基ネットが、予想通りほぼ毎日トラブル続きの状況を見るとき(実は運用以前の技術面でも相当深刻な問題を持っていると思われる)、地方公共団体に個人認証を任せてしまう、つまり認証するための個人情報をコンピュータに保持すると言うのは大変恐ろしいものを感じてしまう。住基ネットは、運用面も技術面もどう考えてもダメなので、大した成果が得られないだけでなくロクな事にならないであろう。事実、住基ネットは個人よりヤミ金融業者が多用しているというのが実体のようだ。技術的にも、人名はJISで規定されていない漢字も多数使われているので、せめてWindowsでなく全ての漢字を使える”超漢字”を使うべきだったのではないだろうか。このように社会は国民の個人認証/情報の一元管理の方向に動いている。
 次に個人認証の技術面であるが、個人認証は、暗証番号、パスワードのように漏洩したら終わりのものから、バイオメトリクスと呼ばれる個人の識別が出来る身体情報を用いる方向に動いている。分かりやすいものは指紋であるが、他にも網膜の模様なども従来使われてきた。そして最近、注目されているのが、静脈パターンによる個人認証で、日立は指の静脈パターンによる個人認証技術を、富士通研は手のひらの静脈パターンで個人認証するマウスを開発した。これで個人情報を持つコンピュータと照合することで完全な個人認証が実現出来るらしい。いやぁ便利だ。個人情報さえ安全に管理することが出来れば。またアメリカでは、人体埋め込みようチップが開発されており、人体埋め込み用チップ、医療目的の販売停止を命令(米FDA)とか体内埋め込みIDチップとGPS装置で要人の誘拐対策に使おうなど、それはもうスゴイことになっている。
 このように冒頭の聖書の預言のような、全人類の個人認証をする個人情報管理がされる社会は相当近づいていることが分かる。刻印というところから、技術的にはバイオメトリクスでなく、埋め込みチップ的なものが採用されるのであろう。
 最後に経済システムについてであるが、これは個人認証と密接な関係を持っている。というのは世界は確実にキャッシュレス社会に向かっており、アメリカは既にほとんどキャッシュレス社会になっている。キャッシュレス社会とは究極的には決済をデータ処理だけで済ますわけだから、それこそ完璧な個人認証が要求される。
 このように、冒頭の聖書の予言はオカルトの話ではなく、世界は、最終的に人類総背番号制、キャッシュレス社会になることを預言していると考えられる。
 以上から、これからの社会、世界情勢を正しく読み解くには、聖書を学ぶことはとても大切であると私は思う。

 ちなみに、ヨハネの黙示録では、世界の最終段階で、上述のような世界の政治的、経済的なシステム統合、宗教の統合を成し遂げ、全世界の救世主と呼ばれる偉大な人(聖書では「獣」と表現)が現れると預言されているが、彼こそが、最後は、思想統制を徹底して人間を管理し、世界を最終戦争に向かわせる”反キリスト”と呼ばれる暴君と預言されている。ご参考までに。

参考リンク

◆ 2002.10 

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

- 新約聖書(マタイによる福音書25章21節)-

解 説

 日本企業はバブル崩壊以降、目標管理制度を導入したりやめたりしているが、この目標管理とはそもそもなんだろうか。目標管理とは1950年代から60年代にかけてアメリカの経営学者、ピーター・ドラッカーらが提唱したマネジメント理論で、人間は事細かに管理して働かせるのでなく、目標を与えて権限と責任を委譲することで能力を発揮するという人間尊重の経営理論である。しかし、この人間の能力を最大限引き出そうというプラス思考のマネジメント理論は、時々本来の目的を離れて人事評価や考課に連動させて単なる賃金カットやリストラの方便として使われることがある。だからこうなってしまうと目標管理の焦点は人間尊重による人材育成と企業の成長でなく「如何にして適切公正な人事評価を行うか」になってしまう。また単なるノルマを「目標」と称して部下に強いてそれで人事考課するようなことになることもある。こうなると自主性による発展を狙った目標管理はほぼ無意味化するだろう。
 さて、冒頭の聖書のことばが書かれているたとえ話とこの目標管理を比較するとなかなか興味深い。
 この聖書の話は、主人が複数のしもべに能力に応じて資金を与えて仕事を任せるという話で、主人は与えられた資金に応じた働きをしたしもべ全員に絶対的な成果の大きさに関係なく全く同じ上記の言葉を持って褒めるのである。
 この聖書の話の主人としもべは実は、創造神と人間の関係を表しているのだが、この聖書の話と目標管理はかなり付合する。

  1. 自主性を尊重している。
     目標管理は、全体の目標を提示して各自が上司と相談しながら自主的に目標を定め、具体的な仕事の仕方は権限と責任と共に任される。これと同様にこの聖書の話でも能力に応じた資金を渡して、主人(神)はしもべ(人間)に務めを任せている。
  2. 評価が絶対評価ではない。
     目標管理はそもそも人事考課のためのものではなく、プラス思考で人間をとらえ人を育て活かす経営理論のようである。つまり画一的なノルマを与えて絶対的な成果によって評価するものではなく、各人の能力と自主性に基づいて目標が設定されてそれを達成していこうというものであろう。これと同様にこの聖書の話の主人も5タラント儲けたしもべも2タラント儲けたしもべも全く同じように褒めており、能力に応じて資金を与えられたにも関わらずつとめを果たさなかったしもべが叱責されている。つまり能力を発揮するか否かが問われているのであって能力差を無視した絶対評価ではないと言えるだろう。
     もっとも、神は元々人間の能力に多様性と差を付けて生を与えているので、そういう評価をしてもらわないと困るわけだが。

 このように見ると、目標管理制度も神が人に対する思いも、人間を裁くことが目的ではなく本質的に人間を尊重し人間を活かそうというものであることがわかる。

 よって私たちは、仕事だけでなく人生そのものにおいて意味と目的、使命が与えられていること、それをなす責任と方策は自主性に任されていることを心に留めて歩んでいきたいものである。

参考になるWebページ

◆ 2002.9 

すべての事について、感謝しなさい。

- 新約聖書(テサロニケ人への手紙第一 5章18節)-

解 説

 先日、イエローハットの創業者、鍵山秀三郎氏の経営セミナーの講演テープを聴いた。すると掃除の大切さを中心に感謝の心など、ほとんど牧師さんか坊さんのお話のような経営談義で面白かった。
 この中で鍵山氏は過去の講演会で「感謝しろと言われても私は不幸ですから感謝できません」という質問を受けたという下りがあった。鍵山氏はこう答えたという。「あなたは一生幸福になれません。それは感謝の思いを持つ人が幸福になれるのだからです」 私もそう思う。幸せになったら感謝しようと言うときっといつまで経っても感謝できないだろう。しかし何事にも感謝する人は回りから見ても気持ちがいいし、好感を持たれることは間違いないだろう。
 確かに辛いとき、悲しいときに感謝することはしにくいかもしれない。しかし上記の聖書のことばも鍵山氏も恐らく同じ事を語っている。それは感謝とは受動的、感覚的にするものではなく意志を持って能動的に行うものだということだと思う。
 ラテンアメリカの明るい人々は「嬉しくなくても感謝する」という。これがカトリックだからなのか元々民族的にそうなのか分からないが、自分の感情を越えてすべてのことに感謝することはとても大切なことだと思う。
 私も日頃の不平不満を、そのまま神に与えられた訓練と考えて感謝することにしよう。

◆ 2002.8 

その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。 

- 旧約聖書(ダニエル書8章20〜22節)-

解 説

 今月は少しばかり聖書の予言について記してみよう。このダニエル書は紀元前に書かれたもので、オリエント地方を支配する国について何度も予言している。
 この箇所はバビロニア帝国のネブカデネザル王が見た、

「頭が純金、胸と両腕が銀、腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄で一部が粘土の像が人手によらず切り出された石に砕かれる」

という不思議な夢をダニエルが解くシーンである。ここでダニエルは、これらはバビロニア帝国以降の大国の興亡であり、石は最後に到来する永遠の国であると解いた。

 これを歴史と照合してみると、バビロニア帝国は、その後、メディア・ペルシャ帝国に滅ぼされ、そのペルシャ帝国はアレキサンダー大王のギリシャに倒される。順序からここまでが金、銀、青銅の国である。次に来る鉄の国は非常に強力な国であるとダニエルは説明しているが、ギリシャはアレキサンダー大王の死後、四つの弱い国に分裂し、その後、歴史上、最強かつ最も長く続いたローマ帝国が登場する。ダニエル書の他の箇所でもこれらの国の興亡とギリシャの後に非常に強力な国が登場すると予言されているので、この鉄の国はローマ帝国であろう。ここまでは歴史と照合できる。

 後は最後の足の部分であるが、この国は全体としては鉄の強さを持つが、一部は粘土のように弱い国であり、人は混じり合うが、国としては団結することはなく、この国の時代に神の国が到来するとダニエルは解いている。これは神の国(キリストの再臨)がまだ到来していないことから明らかにまだ実現していない予言である。そして他の箇所(ダニエル書7章、ヨハネの黙示録13章等)を見ると、この最後の国は多数の国の連合体であると記されている。

 すると、ここで現在の世界を見て思い上がるのがヨーロッパ連合である。ヨーロッパは1952年発足のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体からヨーロッパ共同体(EC)を経て、ヨーロッパ連合(EU)になり今年経済統合を行った。今後は政治、防衛の統合がなされていく予定である。そしてオリエント地方のトルコがEU加盟を希望している。そうすると断定はできないが、連合国、ローマ帝国の後を引く強力な国、もろい国を含むと言う聖書の予言に結構付合することが分かる。もし仮にEUが予言された最後の国であれば、EUはこれから強力な国になって行くが、完全に統合されるところまではいかず、EUの時代にキリストの再臨があるということになるだろう(もっともEUが何年続く国かは分からないわけだが)。

 現段階ではEUがそうだとは言い切れないが、EUの状況は聖書予言の観点から言うと非常に注目されるものであり、恐らくキリスト教圏ではヨーロッパの統合にあたり聖書の予言をいくらか意識しているであろう。日本人もこの辺を意識してヨーロッパ情勢を見ておくといいと思う。

◆ 2002.7 

 だれでも人の先に立ちたいと思うなら、
みなのしんがりとなり、みなに使える者となりなさい。

- 新約聖書(マルコの福音書9章35節)-

解 説

 日本のマネージメントは欧米に比べほとんど発達していない。上記の言葉はマネージメントに必要なある重要な一面を物語っている。
 欧米ではマネージメントが多方面から研究され、心理学も導入しながら常に進歩しているが、日本企業の多くは今でも昔ながらのピラミッド構造で、管理職(マネージャー)と部下は、親分、子分の関係にある、要するに「管理職は部下よりえらい」という構図である。
 しかし現在のマネージメント論においては、一部に逆ピラミッド組織のような現場に権限委譲する組織があるように、「管理職が部下よりえらい」などという発想は相当一掃されているようである。
 では、ここで日本語で言う「管理」について触れてみよう。日本語の管理は非常に曖昧でいろんな意味が混在している。日本語の「管理」に対応する英語は、少なくとも二種類有り、"マネージ(manage)"と"コントロール(control)がある。
 例を挙げよう。「中間管理職」は 英語で"a middle manager"だが、「品質管理」は"Quality Control"で"manage"ではない。つまり英語で明確に区別されている管理と監督が日本語ではごちゃまぜになっているのである。
 では"manage"と"controlはどう違うのかというと、

  • control :正しくやる。支配する、監督する、統制する。
          → 正しい手順が存在し、それをきちんと守ること。
  • manage :うまくやる。やりくりする。抜け目無くやる。なんとかする。
          → 正しい手順というものは存在せず、やりくりして成果を出すこと。

 ……という具合で意味はかなり違う。企業で言うなら現場監督のように部下に指示命令して正しく業務を遂行させるのが監督者、部下?が能力を発揮して成果を出せるように、環境整備し、やる気を引き出すことで成果を出すのがマネージャーなのである。
 これをもう少し分かりやすいようにスポーツで考えてみよう。チームの監督は選手に指示してチームを勝利させることが仕事、マネージャーはチーム、選手が力を発揮できるようにいろいろなサポートをすることが仕事である。
 このように本来、マネージャーとメンバーの間にはえらいえらくないという構図は基本的に存在せず、日本の組織や管理職の位置付けはちょっと違うんじゃないかなと言うことである。
 そして経営者というのは、administrationとも言うが、マネージャーとも言う。つまりえらくなりたいなら、昔の軍隊みたいにえらそうにしているのは勘違いで、最初の聖書のことばにあるようにチームのために尽くせるマネージャーであってはじめて経営者になれるのだと思う。

 マネージメント論が発展して、結局聖書のことばに戻ったのかもしれませんね。

参考になるWebページ(2002/07/29追加)

◆ 2002.6 

 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、
自分を欺いているのです。
おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。
そうすれば、誇れると思ったことも、
ただ自分だけの誇りでほかの人に対して誇れることではないでしょう。

- 新約聖書(ガラテヤ人への手紙6章3〜4節)-

解 説

 がーんと来た。確かに聖書は、ポーズでなく真の意味での謙虚さを重要視しているが、最近私は自分は優秀なのに評価されないのではないかという思いを持つことがあった。でもやはりそれは誤りだったのである。このことばを読んで自分自身を振り返ってみた。すると自己評価は所詮、大した根拠もない「主観」であることが分かった。「客観的評価」という意味では、当然周囲の評価の方が適切だろう。また他の人と話すことで自分よりはるかに上の人もやはり数多くいることに改めて気が付いた。
 と言うわけでやはり人間の能力などたかがしれているので、それを磨く努力をしつつもそんな自分はりっぱだとか優秀だとかいう思い上がりはよくよく注意して心の中から排除しなければいけないと思った。
 ここまで考えると、やはり謙虚さは最大の美徳であり人生の武器ではないかと思った。思い上がったら他者から学ぼうという吸収力はなくなるけど、謙虚である限り周りから多くのものを吸収し続けることが出来るだろう。どの道、「自分はりっぱだ」と思い上がっている人は周囲の人の信頼も得られないでと思う。
 そして高ぶらず謙虚であることは、天におられる創造者が最もよろこばれることの一つであり、「へりくだる者こそ高くする」というのが聖書に書かれている創造者の約束なのだ。

◆ 2002.5 

人がもし、何かを知っていると思ったら、その人は
まだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。

- 新約聖書(コリント人への手紙第一8章2節)-

解 説

 私も三十代だが、人間三十を越えると柔軟性がなくなってくるのが分かる。また勉強する意欲も能力も時間もなくなってくるが経験が増えてくるので、ややもすれば謙虚に学ぶことより経験に頼ってしまうようになる。社会を支えるミドルはとにかく忙しいものだ。五十代を越えるとそれがもっと進み経験豊かになるが、その経験が時としてデメリットになることもある。特に過去の経験が役立たない今の社会はそうで、そういう経験豊かだが柔軟性のない世代はリストラ対象になるか、権力者として社会の変革を妨げるかとなってしまっている悲しさがある。
 この聖書の言葉は、高慢にならず、いつまでも謙虚であることの大切さを示している。謙虚である限り年を重ねても柔軟に学ぶことができるだろうが、高ぶれば経験に頼り、学ぶことを怠ってしまうだろう。年を重ねれば重ねるほど心に刻みつけておきたい言葉である。

◆ 2002.4 

初めに、神である主は、人を取り、エデンの園に置き、
そこを耕させ、またそこを守らせた。

- 旧約聖書(創世記1章15節)-

解 説

 今は無きエデンの園には食物となる全ての草木が生えていたと聖書にあり、さながら巨大な植物園+野生動物公園のようであったようである。そして最初の人間が創造されたとき、神は全ての生き物と地を支配せよと人間に命じられたが、この聖書の言葉にその支配する目的が書かれている。ここに「耕させ、守らせた」とあるように人間の支配権は人間以外の生き物や地などを守り、管理するために与えられたのであり、決して欲望のままに自然や動植物を略奪するために与えられたのではないことがわかる。事実、他の生物を調教したり、自然を改変できるのは人間だけであり人間には支配する権利が与えられていることが分かるが、それはあくまでも自然界や動植物を管理するためだったのである。
 よって環境保護や自然保護、動物愛護などの働きは人間の基本的な務めなのである。

◆ 2002.3 

初めに、神が天と地を創造した。

- 旧約聖書(創世記1章1節)-

解 説

 明治初期に活躍し、同志社大学を創設した新島襄は、この聖書の言葉に感動してクリスチャンになったと言われる。「神」と聞くと私たちは神社の八百万の神々をイメージしがちだが、聖書で語られる神は唯一絶対の創造者であり、同じ神という言葉を使っているが全く異質な神である。よって戦国時代のバテレン(宣教師)たちは「デウス」を、韓国では「ハナニム(第一の方、一人の方)」という言葉を使って明確にした。よってキリスト教で「神」と聞くとき、自分も含めた万物の創造者を意味していると読み替えるのが理解の秘訣である。

 さて、本題に入ろう。私がはじめてこの聖書の言葉を読んだとき「うそや」と思った。なぜなら、宇宙は偶然ビッグバンでできて、生物も偶然発生し偶然が積み重なって進化したのであって起源について創造主の必要性を全く感じていなかったからである。ひょっとしたらここを読むあなたもそうかもしれない。でも少し調べてみて決してそうではないことが分かった。

 まず宇宙の始まりだが一般にはビッグパン宇宙論が受け入れられている。しかし実際には観測からいくつかの問題が指摘されているし、メディアはあまり取り上げないがプラズマ宇宙論という観測事実によく合致する別の有力な宇宙論もあるなど、決してた絶対的な理論ではない。そして何よりビッグバン宇宙論は、最初の大爆発後どのようにしてこの宇宙が生成したかについては説明しているが、最初の大爆発はなぜ、どうして始まったのか、それ以前はどうだったのかという宇宙の起源そのものについては実は説明していないのである。よってビッグバン宇宙論では、「何か」が大爆発のトリガーを引かなければいけないので、創造者の存在を否定するものではないのであった。

 では今度は生物について考えてみよう。人類の技術は非常に発達し、今日のようなコンピュータによる情報ネットワーク社会を造り上げ、遺伝子操作やクローン生物まで造れるようになった。こうなると科学は万能のような気もしてくるが、実は生物だけは造れないのである。
 また最初の生命も海で有機物が生成して生物になったと言われているが、確かに特殊な条件で有機物が生成されることはあるが、その有機物から一体どうやって生物が発生したかは実はほとんど解明されていないのであった。(なお有機物は同じ物質でも構造から右旋性、左旋性があり生成の際に両方が混在するが、生物は左旋性の有機物のみで構成されているのもミステリーである)

 このように現代科学は非常に発達してるが、こと起源については定説はあるものの何も答えていないことを知り、私は万物の起源について冒頭の聖書の言葉以上の説明は存在しないと考えてクリスチャンとして歩む決心をしたのであった。

◆ 2002.2 

地そのものは、そこから食物を出すが、
その下は火のように沸き返っている。

- 旧約聖書(ヨブ記28章5節)-

解 説

 このヨブ記はどんなに新しくても紀元前6世紀までに書かれたものであり、ヨブは羊や牛、らくだなどを所有する裕福な遊牧民であった。しかしこの記述では地下が火のように沸き返っていると書かれている。現代ならこれがマグマの事であると分かるが、何故、2600年以上前の遊牧民がそんなことを知っていたのだろうか?とても不思議である。
 このように聖書には、どうして昔の人が知り得たであろうかと思えるような記述がいくつも見られるので(2001.11参照)、当初、一応理系の私は驚いたものである。このような記述を見るとき、やはり聖書は万物の創造者である主が関与されたと思わざるを得ないなーと思ったのである。

 今回はちょっとつまらなかったかな?

 参考:解説マグマの発生

◆ 2002.1 

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、
その心がご自分と全く一つになっている人々に
御力をあらわして下さるのです。

- 旧約聖書(第2歴代誌16章9節)-

解 説

 全能の神は今も生きて働いておられる。しかし私たちがその無尽蔵の神の力を体験するには、愛であり、義である神と思いが一致していることが必要である。
 私たちは一人残らず何らかの”ミッション”(使命)を持って生を与えられており(勿論、その”ミッション”は千差万別であなたの”ミッション”はあなたにしかできない)、この自分の”ミッション”を自覚し、聖い良心をもって行うとき、全能者の導きと力を知ることができるのである。
 自分の”ミッション”を知るにはどうしたらいいか、試練の中で導きを得るにはどうしたらいいか。それは聖書を読むことである。聖書を毎日、少しずつでも読むとき必ず人生は変わり、神が遠い存在でなく身近におられることが分かるだろう。聖書は人を変える不思議な力を持っている。
 あなたも今年、毎日、聖書を読んでみてはいかがでしょうか?必ずあなたの周りで何かが変わります。

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